ゆらゆらと揺られる私の体。 しばらくの間、私は水の流れに身を任せていた。 辺りはもう薄暗くなってきている。でも、夏のこの時期は 日が沈むのが遅いのでまだ夜の七時くらいだろうか。 どうしてだろう。こうして、水の中に入って浮かんでいるだけで不思議と落ち着いてくる。 「速瀬さん」 上司の寺島さんだ。私を呼んでいるということは、そろそろここを閉めるからだろう。 私は水に浮かんでいた体を起こし、一度地面に足をつけた後で、プールサイドからあがる。 「毎日毎日居残って練習とは、関心しますね」 「ええ、三年間のブランクを取り戻さないといけないので」 「そうですか、でしたら鍵をここに置いていきますので、戸締りはお願いしますね」 「わかりました。お疲れ様です」 寺島さんが帰ったのを見送ると、私はまたプールに入ろうと思った。もう一泳ぎしてから帰ろうと思ったからだ。 「あ、忘れるところだった。速瀬さん」 「は、はい、何ですか?」 「前に渡したアレ、そろそろ提出してちょうだいね。向こうもそろそろ夏の大会が近づいていると思うから」 「わかりました。お疲れ様です」 私は今度こそ寺島さんが帰ったのを確認すると、少し休憩をして水の中に戻った。 「あイタタタ……」 家に帰り、玄関で座り込むと両足に強烈な痛みが走ってきた。泳ぎすぎが原因の筋肉痛だ。 オリンピックを目指していたときは、今日よりも何倍も泳いでいても平気だったのに、今はそんなことをやるだけですぐに疲れを感じてしまっている。これが年をとったということなのだろうか。 私も今年の八月で二十三歳になる。この年齢はまだまだ若い部類に入ると思うけど、昔のような勢いを取り戻すことができないのが今一番悔しいと思っていることだ。 だから、毎日居残って泳ぎの練習をしている。周りの人は、泳ぎのフォームが綺麗だとか、教え方が上手だとか私の評判はいいほうである。でも、私が望んでいることはそんな地位でも名誉でも、周りの人との信頼関係でもない。 昔の自分に戻ることだ。 あのオリンピックからスカウトを受けていた頃の、一番輝いていた時期の自分になることだ。 別にオリンピックを目指したいからとかそういうことではなく、過去との再決別をするためである。 今から五年くらい前。私には遙という親友がいた。孝之という悪友がいた。平くんという友達がいた。私達はいつも四人で一緒に遊んでいて、仲間と呼べるそんな関係を築いていた。 その頃の私は水泳に打ち込む毎日で、卒業後はフォレックスというオリンピック選手を輩出している団体に入ることになっていた。 遙も将来は絵本作家になる夢を持っていて、私も水泳選手になるという夢を持っていた。 そして、遙は孝之と恋人関係になって、私も水泳という恋人を作り、お互いに恋も夢も頑張ろうと言い合っていたあの日。 あの頃が私の最盛期だったと思う。 でも、遙は事故に遭った。昏睡状態で何日経っても目覚めない日々がずっと続いていた。孝之は廃人寸前になっていて、何日も家にこもりっきりで、そんな彼を見ているのが痛々しかった。 だから、私は決めたのだ。遙の代わりに私が支えてあげようと。 そのために、私は全てを捨てる覚悟を決めた。水泳選手になるという夢を。水泳を捨てて、孝之という一人の人間のためだけに生きていようと。 私は将来の夢よりも、仲間のほうを選んだのだ。そのときは、それはそれで充実していた日々だったと思う。 でも、遙が事故から目覚めたときに、私の運命は変わった。もし、遙が目覚めたのが、事故に遭ってから一週間後や一ヵ月後だったなら、こんなに大きく変わることはなかったはずである、私も今頃は、水泳選手になって来年のアテネオリンピックに向けて、一生懸命練習していたと思う。 遙が目覚めたのは、事故に遭ってから三年後だった。みんな遙の辛い事故のことを忘れて、それぞれがそれぞれの道を歩き始めた時期である。孝之も事故のショックから立ち直って、アルバイトをはじめ、私と半同棲生活を始めていた。 そんなときの目覚めだ。もちろん、私は喜んだ。でも、孝之は遙のほうと人生を歩む選択をしたのである。 私は孝之にふられた。自分の夢を捨ててまで孝之に一生懸命尽くしてきたのに、恨みはなかった。なぜなら、私が孝之を支えると言い出したのは、自分の意思によるものだからだ。何か見返りを求めてとかじゃない。 孝之は目覚めた遙と元の恋人関係に戻った。それだけだ。孝之が遙を選んだのは、当然のことだと思う。だって私は、遙の代わりとして存在していただけなのだから。 じゃあ、どうして私は、何の見返りもないとわかっているのに、遙の代わりになろうと考えたのだろうか。答えは簡単だった。 私も孝之が好きだったから。遙以上に私も孝之を一人の男として愛していたからだ。 遙の代わりになることで、私は孝之との甘い恋人生活を満喫したかったのかもしれない。それが私の望んでいた見返り。 たった三年間だったけど、孝之は私のことを遙の代わりではなく、一人の女性として愛してくれた。自分の夢を捨ててまで手に入れた好きな人と一緒に入れる時間。それが少しだったとしても、叶っただけで私は幸せだった。だから、孝之が私を捨てたことに恨みなどはなかった。 そして、私は自分が今まで住んでいた町を離れることにした。孝之は遙と恋人関係に戻ったのだから、代わりの私はもう用済み。老兵は静かに去るのみだ。 私に残ったのは、この銀の指輪だけ。遙が事故に遭ったあの日、孝之が私の誕生日プレゼントとして買ってくれた安物の指輪。 たとえ、値段は安くても、私にとっては婚約指輪と同じくらいの価値があるものだった。 結局、私は指輪を外すことが出来ないまま、この町を去ることになった。それは、孝之との時間を忘れたくなかっただけなのかもしれない。 でも、私達は四人でひとつの仲間。それだけは、忘れていなかった。だから私は、去り際に孝之の携帯にこの言葉を残した。 『孝之……約束……いつか守ります』 いつか……いつになるのかわからないけど、四人でまた会える日が来ることを私は信じている。同窓会みたいなそんな小さい物でもいいから、いつか再会したいと思っている。 孝之に平くん、そして……遙に。 「もう一度やり直せるのなら……」 私は足の痛みに耐えて、家に上がると机の上に載ったままの封筒を見つめた。 封筒の中身は、寺島さんからもらった高校の専属コーチになるための同意書。 私は二年前、孝之や遙を避けるように引越しを始めた。行き先は実家である。実家といっても孝之や遙の住んでいる場所からだいぶ離れているから、好都合だと思ったからだ。 そして、実家の近くを散歩していると、水泳教室の看板が目に入った。最初は、そんなこともあったなと思いながら見ていたけど、インストラクター募集の広告を見て、私は決心した。 次の日、履歴書を出して自分を雇ってもらうように必死にアピールした。私がフォレックスからスカウトを受けていた実績や水泳に対する熱意を相手に訴えたことが功を奏して、私は正式に採用することができた。 今思えば、気を紛らわせたかったのだと思う。仕事に没頭することで、今の自分の状況から逃げ出したかったからだ。 正直不安があったのも確かである。思えば、三年近くも水泳をやっていないので、自信がなかったのだ。 高校時代に常に怯えていたのはプレッシャーである。次も記録を出さないといけない。その次も記録、記録と常に未来の選手として期待できるだけの実績をあげておかないと生き残れない過酷な世界なのだ。 水泳のインストラクターも同じだろう。 子どもに教えて、上達させるだけの実力がないとクビになる。いくらオリンピックからスカウトを受けていたからといっても、教え方が下手ではどうにもできないのがインストラクターという仕事なのだと思う。 でも、一度やってしまえば、そんな不安もどこからか消えていた。 小学生の部という小規模な大会だったが、優勝する人が何人かいたこともあって、働き始めてわずか一年で、私は上級者用のコーチに回された。 私が所属している水泳教室は、それぞれ二十級から一級までのクラスに分かれていて、主に小学生から高校生までを対象にしたものである。その中でも一級は、有数の実力者が多く、中学生から高校生がほとんどだ。将来のオリンピック候補のような人だっている。 私はその子達を、昔の自分のような選手に育て上げるという目標を持っていた。 そうなってくると、その分自分の実力が勝っていないと教えることはできない。それで、私が求めたのは昔に戻ることだった。 いや、これは建前上の理由で、本当の理由は仕事に没頭したかったからである。高校の頃オリンピックを目指していたときは、水泳に没頭して、遙が事故に遭ったときは孝之との恋人生活に没頭して、今度は新しい目標に向かって没頭する。 孝之と暮らしていたときは、水泳という過去と決別し、今は孝之という過去と決別をしている。それを確実にするためには、何かに没頭しないといけないと思っていた。 だから、自分のような選手に育て上げるという目標を持って熱心に水泳の指導に取り組んだ。おかげで周囲から評価されたものの、寺島さんだけは冷ややかな態度を向けていたのだ。 無理しすぎだという評価。もちろん、仕事は真剣に真面目にやらないといけない。でも、真剣すぎたり真面目すぎたりしてもいけないわけである。そういう生活を続けていると、自分の体が壊れることに繋がるからだ。 それを寺島さんは心配したのだろう。でも、私は自分の夢を捨てたことを理由にして、もっと一生懸命やらせて欲しいとお願いした。 それで寺島さんが提案したのが、高校の専属コーチになることだった。しかも、水泳の強豪校ではなく、去年立ち上がったばかりの同好会に近いようなもの。 先生の中に水泳に詳しい人がいないからということで、この教室に依頼があったらしい。 もちろん、この提案を受け入れると水泳教室で教えることはたぶんないだろう。水泳教室からは、出向扱いという形にはなるものの、インストラクターを続けられることには変わりはなかった。 私は、最初乗る気はなかったのだが、最近仕事に没頭した成果が出てきて、孝之との過去を忘れることができていた。だから、ここで肩の力を抜いて、新しい環境で頑張ってみるのも悪くはない。私の力で同好会が部と昇進して、将来オリンピックで活躍する選手になったら、それこそすごいものだと思う。 私は自分の決心が鈍らないうちに、封筒から同意書を取り出して、サインをして、翌日提出をした。 季節は七月の後半。世間で言えば、夏休みという時間である。 今日から出向という形で、私はこの高校の専属コーチをすることになった。 夏休みなので、一日中練習につきあうこともできる。 でも、水泳教室と違うのは、室内プールではなく、屋外プールだということ。そのため暑さ対策も忘れない。 聞くところによると、この高校は最近まで水泳部というのは存在していたが、少子化の影響で生徒数が減少して、一度は廃部になった。でも、水泳をやりたいという生徒が集まってできたのが、今の同好会というわけである。 そして、私が所属している水泳教室の塾長が、その高校の出身ということもあって、OBとして何とか力になってあげたいというのが、本音らしい。 私は、汗が吹き出る暑さの中、その高校に到着すると、早々に挨拶をして、早速練習につきあうことになった。 練習を開始してわずか五分。私は自分の思い描いていた理想と現実にギャップを感じ始めていた。 本当に同好会といってもいいくらいの練習なのである。いや、遊びといったほうがいいかもしれない。 練習内容が特に決っている訳でもなく、プールに入りたい人は勝手に入って、騒いでいるだけ。この中でいったいどうやって指導しろというのだろう。 かといって下手に注意したら、反感をもたれてしまうかもしれない。水泳教室では、注意しても大会で優勝するという目標があるのだから黙って私の指示に従っていたけど、ここはそのような次元が違いすぎる。 私は勝手に騒いでいる部員をただ黙って見守ることしかできなかった。でも、出向という形で来ているので、上司の寺島さんに報告書を書いて提出しないといけないのだ。だから、ただ黙って見守っていましたなんて報告書に書く訳にはいかなかった。 ふと、奥のコースに視線を向けると、一人で黙々と泳ぎの練習をしている人がいることに気づいた。しばらく見ていると、フォームや筋はいいのだが、息継ぎのタイミングが遅れているから、体が速く進もうとしていない。そればかりでなく、スタミナが持っていないので、走り込みをして体力をつける必要もある。 私は、騒いでいる人は放っておいて、その子に向けて話しかけてみることにした。 水泳帽の名前を見ると、平塚と書いてある。 「息継ぎのタイミングが遅れているから、もっと勢いをつけて掻き出さないと」 「そうですか」 その子は、それだけ言うとさっさと反対側のコースへと行ってしまった。 「ちょ、ちょっと……」 慌てて追いかけてみるけど、その子は私を無視しているようだった。かなり、感じが悪い。 「何も無視しなくてもいいでしょ?」 私が再度声をかけると、その子は振り向き様に睨みつけてきた。ショートにした髪を水泳帽で隠し、顔立ちはかなりかわいらしいのだが、その睨みつける様子は、まるで茜を見ているようだった。 「あんた、コーチだって言ってたよね? だったら、そんなとこにいないで、他の人にでも教えてあげたらどう? どうせ、こんな遊びしかしない同好会に来たコーチなんだから、大したアドバイスもできないんでしょ?」 私を挑発するような言葉。まるで、クソガキだった頃の茜にからかわれているようだった。私はこんな挑発に乗る気はないのだが、逆にこれを利用して指導ができるんじゃないかと考えていた。 「だったら、勝負しましょ? 勝ったら私の指導を受けること。負けたら……」 「わかった。その勝負受けてあげる。私が買ったら、ここにいる人全員にジュースをおごってあげるっていうのでどう?」 案の定、私の提案にその子は乗ってきた。私は以前のような実力は落ちたとはいえ、元オリンピックからスカウトを受けた実績はあるのだ。 「よし、その勝負乗った!」 私は笑顔でそう言うと、隣のコースへと並んだ。勝負は五十メートルの一本勝負。 しかも、今まで騒いでいた他の人も、興味を持ったのか次第に私達の前へと集まり始めていた。 結果はもちろん、私の勝ち。しかも、相手を大きく引き離しての勝利だった。 三年間と違って、腕はまだ落ちていないことに安心感を覚えていた。 「あなた、いったい何者? 五十メートルを五十秒台ってプロでも通用するレベルじゃない?」 肩で息をしながら、その子は私に尋ねた。勝負に負けたことがかなり悔しいようだった。 「ちょっと待って。そういえば、さっき速瀬って言ってなかった? 速瀬っていうとあの白陵柊にいた伝説の水泳選手の速瀬水月さん?」 「ええ、まぁ、そうだけど」 私は、その子が自分の名前を知っていることのほうが驚きである。 「す、すごーい! 私、あなたのファンなんです。高校もあなたに指導をして欲しいから、白陵柊を受験したんですよ。今は親の都合で転校しちゃいましたけど。でも、どうしてこんなところにいるんですか? 噂では恋人が引きこもりになったから、その生活を支えるために水泳を辞めたって聞きましたけど、本当はどうなんですか?」 「いや、まぁ、いろいろあってね……オリンピック選手になるのは諦めたっていうか、その……」 うまく言葉が見つからなかった。正直にふられて、逃げるようにこの町を去ったなんて言えるはずがない。 「わかりました。そのことについては深くは言いません。今から、指導をお願いします。私、あなたから教えてもらうことが夢だったんです」 さっきまでの態度はどこへやら、その子は私に微笑んでみせた。でも、私には気になることがあった。 「それじゃ、あなたの白稜柊にいたってことなの? もしかして、そのときに水泳を指導していた人って……」 「はい、涼宮先輩です」 その子から感じるのは、茜のようなものに似ていたから、まさかとは思っていたけど…… やっぱり、茜だった。久しぶりに聞くその名前に、どこかなつかしいものを感じていた。今頃、茜はどこで何をしているのだろう。 「そうか、茜だったんだ。今頃はどうしてるんだろうな」 「卒業後は、アメリカに留学に行っちゃいましたから、きっと大丈夫ですよ」 「そうなんだ、留学しちゃったんだ」 私は、出向先の場所でかつての知り合いのことを聞いて、少し驚きを感じていた。 「頑張れ! あと少し!」 さっきの水泳勝負以降、私は本格的に指導することができるようになっていた。 どうやら、白稜柊で私が作った伝説は、多くの高校の水泳部で既に知られているらしく、自分の正体を明かしてしまった今は、さっきまで遊んでいた他の部員にも、教えて欲しいみたいなことを言われてしまった。 でも、こういうふうに教えていて思うのは、何か楽しい。 今までは、大会優勝向けの人専用に教えていたから、記録が伸びなかったり、私の言う通りにしなかったら、それだけで自分の教え方が悪いんじゃないかと躍起になってしまったけど、今は初心者向けに伸び伸びとマイペースに教えられているので、そういうプレッシャーを感じることもないのだ。 それに、同好会とはいえ、水泳が好きな人が集まっているから、飲込み方がよく、上達するのは時間の問題だと思う。大会で優勝するのは無理でも、次の大会ではいい線に行く可能性はあるだろう。 さっき、私と勝負した平塚さんも茜に教わっていたこともあって、随分とこれからの活躍が期待できそうだ。二週間後にある大会にも出場するみたいだし、これからの追い込みで何とかなるかもしれない。 こういう教え方も悪い物ではないと改めて思った。 「あの、速瀬さん、ちょっといいですか?」 帰り際になって、あの子が私に尋ねてきた。 「何?」 「実は、速瀬さんに会わせたい人がいるんです」 「え?」 誰だろう。私の知り合いなんて、そんなにいるはずがない。茜はさっきあの子が言った通り、アメリカに留学しているし、まさか、遙……は、学年が違いすぎるから知っているはずがない。 「あのさ、誰なの? その会わせたい人っていうのは?」 「平慎二さんといえば、わかりますか? 実は私、慎二お兄ちゃんの従兄妹なんですよ」 そう言って平塚さんは、にこっと笑ってみせた。まるで、孝之のことをお兄ちゃんと呼んでいた頃の茜を見ているような気分である。 平くんか。今頃どうしているんだろう。思えば、孝之たちと別れたあのときから、平くんに一度も会っていないのだ。 「慎二お兄ちゃん、時々速瀬さんのことを私に話していたから、たぶん、心配していると思うんですよ。だから、慎二お兄ちゃんのためにも会って欲しいんです」 私は、しばらく考えてみた。昔の仲間に会うべきかどうか。もしかしたら、私が会うことで余計な過去を蒸し返すことになってしまうかもしれない。でも、まずは平くんにあって、孝之たちの状況を確認してから考えたほうがいい。 「わかった。一度会ってみようと思うから、ちょっと待ってて」 私は急いで、職員用の更衣室に行って、帰りの身支度を手早く始めることにした。 電車に乗りながら、私は平くんの今の状況を平塚さんから聞いた。 平くんは、お父さんが働く法律事務所に就職して、第一線で頑張っているらしい。その場所は、駅からわずか二駅しか離れていない場所にあった。 平塚さんはその事務所の上の階に住んでいるらしく、彼女のお父さんは弁護士として平くんと一緒に働いているそうだ、 その事務所に着くと、まだ照明がついていた。もう夜の七時だというのに、残業をしているのだろうか。 二階にある事務所まで上がると、平塚さんは受付のベルを押していた。そこから、奥の様子は見えるようになっていて、何人かは電話をかけたり、六法全書を開いたりとぴりぴりした緊張感が伝わってくる。 この中に平くんはいるのだろうか。 やがて、受付担当の人が出て来て、平塚さんと何か話をしているようだった。私は現場の緊張感から逃れようとして、適当に周りを見回した。 すると、近くに別室があるようだ。側まで近寄ってみると子どものはしゃぐ声が聞こえている。中を覗いてみると、黄色やオレンジの明るい色の装飾と、絵本を入れた本棚やおもちゃのようなものがいくつか置いてある。託児所か何かの施設なのだろうか。 入り口には、「ぜひ、感想にご協力をお願いします」という張り紙と共に、一際目立つ絵本が置いてあることに気がついた。タイトルは「わすれられないなかま」で、作者は「むらかみはるか」となっている。 はるか…… そういえば、遙は絵本作家になると言っていた。でも、苗字が違っているし。いや、もしかしたらペンネームを使っているのかも。 私は、思わずその絵本を手に取って見た。やわらかなタッチで描かれた子供向けの絵本。そして、本の中身を開いてみた。 四人のおこじょが木の実をどうするかについて、喧嘩が起こり、そして、ナッツというおこじょは一人だけ仲間の下から去っていくというもの。 そして……そして…… 「遙……」 絵本を見ながら、私の瞳からは涙が溢れていた。読み終わる頃には、何て書いてあるのかわからないくらいの涙が滲み出ている。 間違いない。この作者は遙だ。この絵本にあるナッツというのは、たぶん私のことで、三人のおこじょは、遙と孝之と平くん。 絵本の文には、ナッツが帰ってくるのを待っていると…… 「遙……」 私はハンカチで涙を拭きながら、最後のページをめくってみた。 そこには、丘で待っているナッツと、三人のおこじょがその丘に向かって歩いているのがある。 私は、その絵本を閉じるとある想いが頭を駆け巡っていた。 遙に会いたい…… もう一度、楽しそうだった四人の仲間に戻ることなんてできないと思うけど、今まで待たせてごめんということだけはどうしても言いたかった。 「あ、こんなところにいたんだ? 慎二お兄ちゃん、たった今外回りから帰って来たところだから会っていってよ」 タイミングよく、平塚さんが話しかけてきた。 「え? あ、うん」 私は泣いていることを悟られないように、顔を手で隠しながら受付まで戻り、相談室のような場所へと案内される。そこは、一人の人間が座れるようなスペースになっていて、一対一で話すことができる、また、周りの人間には見えないように、左右には仕切りがされている。 やがて、そこから一人の男性が現れた。 「速瀬?」 その声は紛れもない、二年ぶりに聞く平くんの声だった。 「平くん、久しぶりだね」 久しぶりに見る平くんは、仕事疲れなのかかなりやつれてはいるけど、外見はもう立派な社会人になっていた。二年前にあったときとは、チャラチャラとしていたのに、今はそんな雰囲気はどどこにもない。もうすっかり大人という感じがした。 「やっぱり速瀬じゃないか! どうしたんだよ、こんなところまで来て! 相談したい客が来ているからと言われて行ってみたら……驚いたよ」 平くんは、平塚さんから事情を聞いてここに来たのかと思っていたのだが、 仕事が忙しくて聞いていないだけなのか、そういう雰囲気はどこにもなかった。でも、平くんは仕事中だというのに、それでも再会したことを素直に喜んでいたのが、私にとっては嬉しかった。 「あ、いや、ちょっと用事があってね」 事情を知らないようなので、適当にこちらも受け流しておくことにした。 「で、今日はどういう用で来たんだ?」 「向こうにあった絵本のことなんだけど……」 「え?」 平くんはそう言うと、急に顔をこわばらせた。何かいけないことを聞いてしまったのかもしれない。 「もしかして、読んだのか? あの絵本」 「う、うん。あの作者って遙じゃないのかなって思って。ほら、あの子絵本作家になりたいって言ってたし。それで、あの絵本に書いてあることが、遙の気持ちだったんだと思うと、急に会いたくなっちゃって、その……」 私は、自分の想いを平くんにぶつけていた。平くんは私の話をじっくりと聞いていたが、急に黙りこんでしまった。 周りは静かなので、気まずい沈黙が続く。 「確かに、あの絵本を書いたのは涼宮だよ。何か大学が主催の絵本コンクールに出品したらしくて、あの絵本は最終選考作だ」 「最終選考?」 「絵本っていうのは、子どもが読むものだろ。だから、実際に子どもが読んでいいと思った物を入選作として選ぼうと言うことになったらしい。うちの事務所も、託児所があるくらい子どもが多いからな。ぜひ、置かせて欲しいって話になってね」 「へぇ〜」 遙って、今それなりに自分の夢へと向かって頑張っているんだなと感心しながら平くんの話を聞いていた。 「ところで、速瀬はどうしてるんだ?」 「わ、私? え、えっと、水泳のインストラクターを始めて、今は高校の専属コーチをやったりなんかしてる」 「水泳って一度は辞めたはずなのに、また始めたんだ?」 「うん、私に残った物といえば、それくらいだからね」 こうして、久しぶりに会う仲間の近況を聞くと、みんなって随分変わってしまったように思う。茜はアメリカに留学して、遙は絵本作家を目指していて、慎二くんは社会人として一生懸命働いて……私はみんなから見て立派なのか、それが心配だったりもした。 「孝之はどうしてるの?」 「遙とはラブラブだよ。確か今年になって、大学に入学したんだっけかな。この前、あいつの家に行ったら、涼宮もいてさ。すっかり半分同棲というか、新婚気分というか俺なんかが入っていけないくらいのオーラが漂っていたな」 「そうなんだ」 私は、少し安心した。前に私がやっていたことを遙がちゃんとやっていてくれているからだ。孝之が元気で遙と一緒にやっていてくれるなら、それだけで私は安心だった。 「ところでさ、近いうちにみんなで会わない? 同窓会みたいな感じで、思い出のあの丘で語り合うっていうのもいいと思うんだ」 唐突に私は、本題を平くんに切り出した。 「え? 俺は別にいいけど……速瀬は?」 平くんが聞いているのがどういうことなのか、私にはすぐにわかった。 孝之と会って大丈夫なのかということだ。 「私は大丈夫だよ、もう孝之のことはちゃんと吹っ切れたから」 「そうか……」 「日にちは、そうだね、八月十五日にしようよ」 「八月十五日か。まぁ、盆休みだからいろいろと都合はつくけどな」 「私は、高校のコーチの仕事が終わってから行くから、午後六時くらいでどうかな?」 「わかった、涼宮や孝之にもそう伝えておく」 私達はそういう話をしばらくした後で、平くんの事務所を後にした。 そして、約束の八月十五日。 仕事が早目に終わった私は、あの丘の上へと来ていた。ここに来るのは二年ぶりだ。 時刻を確認すると午後五時半。一足早く頂上に着いたせいで、辺りには誰もいなかった。先に着いたのは私だけである。 頂上には、一本の大きな木が立っている。私はその木の側に立って、そこから下のほうを見下ろした。あと少しすれば、遙も孝之も平くんも来る。二年ぶりの再会だ。 もし、遙に会ったら先に何と言おうか。 その先はもう決っている。 二年間、何の連絡もしてこなかったのだから、心配させてごめん、待たせてごめんというものである。 時刻は午後五時四十分。夕方だというのに、辺りは昼間のように明るかった。 私はハンカチで吹き出る汗を抑えながら、遙たちを待ち続ける。 ふと辺りを見回すと、近くに彼岸花が咲いていることに気づいた。 彼岸花。誰もいない場所にひっそりと咲いているとても悲しい花。でも、彼岸花の花言葉は再会。まるで、これから遙たちと再会を思わせるようなものである。 そういうことを思いながら、下を見てみると誰かが丘の上を登っているのが見えていた。学校は夏休みだし、部活は既に終わっている時刻なので、白稜柊の生徒でないことは明らかだ。 いや、元白稜柊の三人がだんだんとこちらに近づいている。 一人は長い髪を一部三つ編みにした女性。肩にはバッグを持っている。そして、あとの二人もバッグを持った男性だ。女性は、男性の一人と手を繋いでいるのがわかった。 私は一目で遙と孝之、そして、平くんだとわかった。 「水月!」 そう思っていると、突然遙が孝之の手を振り切って、こちらに向かって走り出していた。 「え?」 突然走り出してくるとは思わなかったので、私はただ驚くことしか出来なかった。 「水月! 会いたかったよ! ずっと、ずっと会いたかったよ! 水月!」 遙は私の胸に飛び込んで、そのままずっと泣き続けていた。 ![]() 私はただ黙って、遙を抱きしめていた。 「水月……おかえり……おかえり……」 遙は泣きながら、その言葉だけをただつぶやいている。 「ただいま、遙。随分と待たせてごめんね」 私も遙に再会したときに最初に言おうと思っていたセリフ。ようやく言うことが出来て、私は安心のため息をついた。 私は、今左の薬指に指輪をしている。 だいぶ前に孝之に買ってもらった銀の指輪だ。 遙と別れてからは、指輪をしばらくはずっとしたままだったが、時間が経つにつれて、孝之とのこともだんだんふっきれてきて、あるときから指輪を外すようになった。 それからずっと指輪は、私のアクセサリー箱の中で眠ったままだったのだが、今回は久しぶりにしているのだ。 理由は、もちろん…… そのために、まずは当たり障りのないことから尋ねようと考えた。 「ところでさ、遙と孝之ってうまくやってるの?」 思い切って私は、遙に尋ねてみた。 「うん、水月がやったみたいに、毎日孝之くんの家に行って夕食を作ってね。それで、一緒に食べてるよ」 「そうか、うまくいってるんだ。私の分まで幸せになってね、遙」 「うん」 そう笑顔で言う遙の表情は、誰よりも輝いてみえた。孝之と一緒にいれて幸せだというのが読み取れる程である。 「私もね、恋人ができたんだ」 「ええ!」 孝之くんと平くんが驚きの声を挙げる。それはそうだろう。 「ちょっと何よ。その驚きようは?」 ちょっとからかったように、突っ込んで見せたが、私はすぐに真顔になった。 「おめでとう、水月」 少し遅れて、遙も祝福を入れる。 「もう、そんなに大きなことじゃないよ。私の恋人はね、今やってる仕事なの。二年前に引っ越した地で水泳のインストラクターを始めて、最近は高校の水泳部のコーチもやってるの。そうしたら、人に教えることがだんだんと楽しくなっちゃってね。今、大学行って体育教師になろうかなって、そんな夢を最近持つようになっちゃってさ」 「水月……」 「だからさ、遙。これもらってくれないかな?」 私はそう言うと、左の薬指にしている銀の指輪を指差した。 「これ……」 「私の恋人はもう別の場所にあるの。だから、孝之に縛られていた証みたいなこの指輪はもういらないから、捨てる決心がようやくついてね。でも、もったいないから、孝之のことを大切にできる遙になら、あげてもいいかなって……だから……」 「水月……」 「指輪のサイズ9号だけど、大丈夫?」 「う、うん、大丈夫だと思う」 遙がそう言ったのを見届けると、私は指輪を少しずつ外し始めた。 今までは私の体の一部みたいだったこの銀の指輪。今度は、遙の体の一部となって、孝之の元で幸せになってね。 そう指輪に最後の別れの言葉を送りながら、指輪を外した。 「孝之、これ孝之から遙に直接つけてあげて」 「ちょ、ちょっと水月……」 「いいじゃない、婚約指輪だと思えば」 「こ、婚約って、私はまだ……」 遙の言葉を無視して、私は孝之に指輪を手渡す。 「遙……」 私は、その様子を見届けようと心に決めていたので、じっくりと様子を見つめた。 遙は少し照れながらも、ゆっくりと左の手首を孝之くんの前に差し出した。 「行くよ」 孝之のその合図と一緒に、遙の薬指にしっかりと入ってくる銀の指輪。私は、指の奥まで入る様子を見守り続けていた。 側では、平くんがいつの間にカメラを構えていて、その指輪の写真を撮っているようだった。 もしかして、さっきのを撮られたと思うと、恥ずかしさが急にこみ上げて来る。 何だか嬉しくなった私は、二人に祝福の拍手をしたのだ。精一杯の笑顔で。 「ありがとう、大切にするよ。水月」 遙は満面の笑みで、私にそう言っていた。それが、昔の仲間に戻れたような気がして、私は純粋に嬉しかった。 「あの、水月……これ……」 遙はバッグから一冊の本を取り出した。これは、私がこの前平くんの事務所で見た絵本である。 タイトルは「わすれられないなかま」だった。 「ありがとう、遙。遙が私に会いたいって気持ちこの絵本から伝わってきたよ。もし、この絵本を読んでいなかったら、もしかしたら同窓会をしようなんて言わなかったと思う」 「えっ、それってどういうこと?」 遙は状況をよく知らないようだった。もしかして、私が既に読んだことを知らないようである。 「涼宮、知らなかったのか? 涼宮の書いた絵本な、コンクールの最終選考に残ったんだよ」 「え?」 慌てて、平くんが説明を入れる。 「最終選考に残った絵本は、幼稚園とかに置いて、直接読者の意見を参考にして選んでいるみたいなんだ。俺の働いている事務所も、子供が多いからさ、調査に協力してくれって要請が来たんだよ」 「そう……」 遙は、状況をようやく理解したらしく、いつの間にか嬉しさで胸がいっぱいになっているようだった。 「遙、頑張ってね。遙なら入選できるよ。絵本作家になれること、応援しているから」 「水月……ありがとう」 私は精一杯の応援の言葉を遙に贈った。最終選考に残れるくらいなんだから、きっと遙は立派な絵本作家になれるはずだ。 「水月、俺も言いたいことがあるんだ」 背後から今度は孝之の声が聞こえてきた。 「水月と一緒にいた頃、使っていたマグカップがあるだろ。あれ、実はもう二つ足したんだよ。俺たち四人は仲間だという証として」 「孝之……」 そういえば、そんなこともあった。孝之と一緒にいった水族館で買ったマグカップ。 私は孝之の思い出を残さないために、指輪以外は、持って行かなかったので、たぶん孝之は既に処分したものだと思っていたので、かなり驚いた。 「だからさ水月、今日だけ同窓会なんて言わないで、俺たちがいるこの町まで帰ってこいよ。四つのマグカップを使って一緒に飲める日を楽しみにしてるんだからさ」 「うん、ありがとう。孝之」 私はそう言うと、孝之から背を向けた。あまりの嬉しさで急に涙が込みあげてきたからだ。泣かないようにしてたので、私は何とかしてこらえようとしていた。 「それじゃあさ、またあのときみたいに写真を撮らないか。俺たち四人の再会を祝して」 今度は平くんが声をかけてきた。手にはカメラを持っている。 「それじゃ、今日は再会記念日だね」 「再会記念日?」 私は、遙の後に続いて、オウム返しに聞き返していた。 「うん、水月が今日を選んだのは、仲間記念日だからでしょ? だから、今日は仲間記念日でもあって、再会記念日でもあるんだよ」 「仲間記念日か、なつかしいな、その響き」 「そうだね」 実は、今日を再会する日に選んだのは、遙が仲間記念日だということを記憶の片隅に留めておいたからだ。遙ならわかるだろうと思って、あえて平くんには何も言わなかったけど、やっぱり気づいていたようで、そのことが嬉しかった。 「あのときは、新しいスタートの日だって言ってたけど、今日は新しい再スタートの日だな」 「それじゃ、孝之は涼宮の隣、そしてその隣は速瀬で、その隣が俺でいいよな」 カメラをいじりながら、そう提案する平くん。 私の隣には、遙がいる。二年前に分かれてそれっきりの私の大事な友達。 五年前とは違う道をそれぞれ歩いているけど、私たちは四人でひとつの存在であることには変わりはない。 「よし、セルフタイマー押したからな」 そう、私たちはいつまでも仲間だ。 ―「もう一度やり直せるのなら……」 終― 人気投票、Web拍手では、一言感想を書くことができます。 |